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| 月刊ランポNo.45 2001/10/13 連載 NPOの論点8 市民活動としてのNPO 連載第4回から米国におけるNPOの存在理由に関する議論をおおざっぱに概観してきたわけだが、この辺りで、私の積極的な考え方を述べてみよう。まずは、アプローチの手法について、私の立場を明らかにする必要があるだろう。 すでに触れてきたように、「契約の失敗」、「政府の失敗」からNPOを説きおこすアプローチは迂回の手法で、あらかじめ残余セクターとして取り扱うという姿勢である。ローマンにしたがえば、レタスはレタスとしてつかまなければならない。非営利活動の固有の性格を把握するには、その活動そのものに即して把握することが自然なアプローチである。こういったからとて、他のセクターとの比較を行う方法を排除するものではなく、また他セクターとの相補性を否定するものでもない。それはつまり、供給サイドの視点、行為主体の立場に立つということになる。なぜ人は非営利活動に参加し、何を求めるのか、という視点である。そのうえで、政府や市場との接点が検討されていくべきだろう。 人びとの集合行動 非営利活動を一言で表わすならば、人びとの自発的な集合行動であって、金銭的利益動機をもたないものである。これは、デビッド・スミスらの「もっとも広い意味では、NPOは個々のボランタリー行動の集合形態である」という定義の線にしたがっている。スミスらの定義はさらに、第一義的に金銭的な利得を期待せず、強制されずに人びとが共通の目的を追求するものとしている。この定義は、@人びとの集合行動、A自発的であること、B金銭的利益動機をもたないもの、の3つの部分に分解される。Aは、その逆が強制的だから、非政府を表わしている。Bの逆は利益追求だから、非営利を表わしている。金銭的利益というのは、金銭またはその他の財物を取得・所有・占有することによる利益であり、広い意味の社会的利益を排除しない。 人びとの集合行動には、親睦・サークル活動、企業の営利活動、利益集団活動、社会運動、政治活動、宗教活動など多彩な活動が含まれる。現実的な利益を追求するものもあれば、生きるための価値を求めるものもある。集合行動は、一義的に強制力による集合としないで、人びとの自発的集合と理解しておく。集合行動には、@きっかけ、A自発的な参加、B参加者相互のコミュニケーション、C価値・目的の共有、D参加者の何らかの充足という要素がある。これらはそうじて、相互主観の形成という意味をもつ。 何らかの集合行動には、そのきっかけとして問題の発見がある。これを社会運動論では「きっかけ要因」と呼び、社会的緊張、ある状態を「剥脱」されること、あるいはそれらを総合した社会構造の変化に求める。社会運動論におけるきっかけは、運動主体にとって受け身的な側面に傾いているようにも見受けられるが、集合行動には能動的なものもある。マネジメント用語での問題とは、ありたい姿と現実の状態とのギャップと説明される。 きっかけ要因が集合行動となるには、受け手の主体が自発的に参加していくプロセスがある。このプロセスは、参加者のコミュニケーションの過程である。コミュニケーションに言語は欠かせないが、集合行動の性格によっては非言語的コミュニケーションも重要な役割を果たす。このコミュニケーションは、必ずしも合理的なものではなく、多彩な形をとる。 集合行動がある程度定形化されるためには、発見された問題がある範囲の人びとに共有されることが必要になる。問題の共有は、人びとが相互主観を新しくつくりだしていくプロセスである。きっかけ→問題の認識→目的への集約、それらはコミュニケーションを通じて、それぞれの主観が自己を超えて相互確認される相互主観の形成プロセスである。 こうして目的・目標を達成するための集合行動が展開される。この行動のなかで参加者が拡大したり、離脱したりしていく。集合行動にとって、目的の達成は重要な要素である。だが、問題の性質によって目的達成への自覚にはさまざまな水準がある。当初の目的が変更されたり、あいまいになっていくことは、集合行動にはよくあることだ。それでも、参加者が活動に充足していれば、活動は持続していく可能性は残る。活動を継続し続ける参加者は、その活動から何らかの充足を得ていると考えられる。この活動の充足感こそ、参加の動機を裏づけるポイントである。どんなに利他的な活動であろうと、自己の充足感なしには続かない。 市民活動を定義づける 集合行動に欠くことのできない構成要素である目的の共有、任意な参加、コミュニケーション、参加者の充足などは、市民活動でも共有される基礎的なものである。これらに加えて、市民活動という概念には民主性という要素が含まれると考える。市民という概念には、対等平等な権利能力をもつ者という意味に加えて、コミュニティを構成する者であることを自覚して、自発的に決定に参加する個人という意味あいが含まれると思われる。したがって、市民活動というとき、具体的には、意思決定へのあるレベルでの参加の保証、討議という自覚されたコミュニケーション、社会的な視野をもつ目的の自覚的な定立などの要素が付加される。市民活動でのコミュニケーションは参加者の討議という形ですすめられるだろう。また、目的・目標の設定の過程でも討議が中心的な役割を担う。このような意思決定プロセスは、多少なりとも理性的な討議にもとづく合理性に近づいていく。 さらに、市民活動というとき、人びとの日常性のなかで一定の継続性をもった活動というニュアンスがあるように思う。市民活動と概念的にオーバーラップしている社会運動、市民運動にも、継続する組織によって展開されるものが多いが、それらの概念はおそらく単発的な運動を否定しない。市民活動の概念には一定の定型化された組織を必要とし、さらに継続した活動は反復継続するという事業性を含むととらえられる。言葉を換えると、市民運動・社会運動という概念には制度化にそぐわないものがあるが、市民活動は制度化の可能性をもつ。ここから市民活動を、法人格付与をはじめとする持続的な公共政策の俎上にのせる可能性が開かれる。 私たちはこうして、市民活動を、目的の共有、任意の参加、コミュニケーション、参加者の活動過程での充足などの要素を基礎に、民主的で合理的な傾向性をもつ、継続される組織的な活動と定義づける。これを市民活動の組織原則に置き換えると、@人の結合(社団性)、A目的・目標の構成員による共有、B平等な意思決定、C活動への何らかの参加、D自発的な参加(または離脱)といった標識をあげることができる。このようなとらえ方は、すべての市民活動を網羅するものではないかもしれない。そして、これは操作的で規範的な傾向をもつかもしれない。しかし、市民活動の大方が多かれ少かれ共有する属性と見てよいし、現実にさまざまに展開されている実際の市民活動に該当する要件であると思う。 ところで、松下圭一は市民活動を「市民の内部で日常の政治訓練の場」ととらえ、市民参加による直接民主政治を代表民主政治の土台に置き直す運動と規定する。このような規定は、市民活動の政治機能という視点からのものである。このとらえ方から、市民活動を狭義の政治活動に限定することは、市民活動の実態をとり違えることになるだろう。むしろ、多様な市民公共的な実践――まちづくりや介護サービスなどの――が、公共政策(市民政策)の基礎となると理解されるのである。(つづく) |
| (東京ランポ理事・林 和孝) |